万葉集とは(上)

現存する最古の『万葉集』は、8世紀末のものです。『万葉集』の名の由来は、諸説あります。

その一つは、「葉」を言葉という意味ととらえ、万の言葉を集めたという説です。
全20巻、約4500首の和歌が収められています。和歌の作者は、天皇や政治家といった貴族階級の人から、一般の人まで様々ですが、大半は、作者不明の「詠み人しらず」です。名前の記された人は、約460人。その中でも、20首以上が載せられたのは13人ほどしかおらず、いかに幅広い層から和歌が集められたかがわかります。
『万葉集』の特徴の一つは、一冊の歌集としての輪郭が非常に緩やかであることです。多くの人が、長い時間(一世紀半!)をかけて、増補を繰り返し作られたからです。一貫した編纂方針がなく、集められた和歌は多様でバライエティに富んでいます。
次にあげられる特徴は、解釈の多様性です。『万葉集』の原文は、漢字のみで書かれていました。ひらがなの発明以前に書かれた和歌には、助詞や動詞の活用が書かれていません。それは、全体の文脈で予想できる文字は省略するという知恵だったと思われます。現代の私たちには謎解きのように感じられます。それによって、後世には様々な歌の解釈が生まれました。解釈をする人によって、大きく意味や味わいが異なり、数多くの注釈書が生まれ、読み継がれてきました。

雑歌(ぞうか)とは
万葉集シリーズで取り上げるのは、雑歌の中でも情景をうたった和歌です。
雑歌とは、万葉集に収められている和歌、3つのタイプの一つです。『万葉集』の歌は、相聞歌(そうもんか)、挽歌(ばんか)、雑歌(ぞうか)という3タイプに分けられます。

相聞歌は恋の歌です。
  
玉かぎる 昨日の夕 見しものを 今日の朝に 恋すべきものか (作者不明)
  (昨日の夕方逢ったのに 今朝になってもう恋しくなっていいものか)

挽歌は人の死を悼んで作られた歌です。
  
かからむとかねて知りせば 越の海の荒磯の波も見せましものを (大伴家持)
 (もしこんなことになると知っていたなら、越の海に打ち寄せては返す荒波を見せてやったのに)
 これは、越中に赴任して間もない、大伴家持が弟の死の便りを受け取った際に読んだ歌です。
雑歌は、相聞歌や挽歌のカテゴリーに入らないものを指します。雑歌には、宮廷儀式の際に読まれたもの、家族との別離の寂しさを歌ったものや、人生、老い、貧しさ、そして自然や旅情を歌ったものが含まれます。

秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬し思ほゆ(額田王)
(秋の野の萱を刈って屋根に葺き旅宿りをした宇治のみやこの仮の庵が思い出されます)

万葉集の歴史と主な歌人
―初期万葉

バライエティに富んだ『万葉集』は歌風によって4つに分けて考えらえます。第1時期は初期万葉、舒明天皇から壬申の乱(672年)までで、代表的な歌人に、額田王、天智天皇がいます。五七五七七(短歌)といった形が整えられていく過程と考えられます。時代は、大化の改新をへて、中央集権国家へと変革していく時でした。
 万葉集シリーズで、題材として用いられた舒明天皇の国見歌も、初期万葉の代表的なものです。
  大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は
(舒明天皇)
(大和には 群山があるが 特に頼もしい 天の香具山に 登り立って 国見をすると 広い平野には かまどの煙があちこちから立ち上がっている 広い水面には かもめが盛んに飛び立っている ほんとうに良い国だね (あきづ島) この大和の国は)

言葉にした状態が現実になるという言霊の発想から生まれた儀式の際の歌です。見晴らしの良い場所から、国の理想の状態が見えたと宣言しています。いつ、どこで、なにを、どのようにという、様々な情報をコンパクトに纏められて表現されていて、情景が目に浮かびやすく、完成度が極めて高い歌です。

第2期万葉集
 第2期は、壬申の乱(672年)から、平城京遷都(710年)までの40年あまりです。藤原京が全盛であった時代で、歌といえば宮廷詩が重んじられる時代でした。万葉前期に、呪術的な歌から、カチッとした「書くこと」を意識した歌が生まれるようになりました。代表的な歌人は、柿本人麻呂です。
 ―万葉集のスーパーヒーロー 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
 万葉集の代表的歌人といえば、柿本人麻呂です。人麻呂なくして、『万葉集』は成立しないとも言われます。全20巻の、1巻と2巻は特に人麻呂の和歌が載っています。歌聖であり、優れた歌人を選んだ三十六歌仙の一人でもあります。

柿本人麻呂の生没年は、はっきりとわかっていませんが、660年頃から、720年頃を生きたといわれています。主に、天武天皇(?~686、在位673~686)の頃に主に活躍したと考えられます。柿本人麻呂は、舎人(皇族、貴族に仕え、警備や雑用をしていた)であるとか、
所説様々ありますがはっきりとは分かっていません。一般的には、下級官史として生き、和歌が上手であったので、時には宮廷に歌を献上したり、地方に出張に行ったりしていた公務員であったと考えられます。

人麻呂は、下級官史として、天皇に捧げる挽歌を歌ったりした公式のものもありますが、妻の死を悼む歌や、赴任先の岩見から京へ転任になった時の妻との別れの悲しみを歌ったものなど、プライベートを歌ったものも多数残されています。柿本人麻呂の歌が優れているのは、それまでに伝えられていた和歌の形式的な美しさに、個人の生活を現実的に描いた表現が融合されているところにあるといわれています。

あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳に 雲立ち渡る(柿本人麻呂)
(あしひきの)山川の瀬が鳴り響くのに合わせて 弓月が岳に雲が立ち渡ってゆく

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