万葉集とは(下)

第3期万葉集
第3期は、平城京遷都(710)から天平5年(733)です。

儒教や老荘思想の影響を受けた様々な歌が生まれました。代表的な歌人は、大伴旅人、山上憶良、です。それまでは、美しいものを特に取り上げた宮廷詩が多かった和歌に、「貧乏」などのテーマを取り上げた歌が作られるなど多様性を見せました。
―酒を詠んだ大伴旅人(おおとものたびと)
 大伴旅人(665~731)は、名門大伴氏の代表者で大納言(今でいう国務大臣)という高級官僚でした。『万葉集』第4期の重要人物の大伴家持の父親でもあります。旅人は、大宰府(現在の福岡県北九州市におかれた政府機関)に出向しており、その時に同時代に活躍した山上憶良の上司となり親交を持ちました。大宰府は、大陸や朝鮮半島との外交の窓口でもあり。当時の最先端の文化に触れることができる場所でもありました。中央である都とは、少し離れたあまり制約がない自由な雰囲気の場所で、中央歌壇とは少し毛色が異なるユニークな作品をつくりました。
 旅人の作風は、個人の生活感情が率直に表現されたものでした。前時代の柿元人麻呂の作品で見られた個人生活に根差した感情表現を踏襲し、更に巧みに近代的にしたものです。

  行くさには 二人吾が見しこの崎を 一人過ぐれば 心悲しも(大伴旅人)

これは、九州から上京する際に赴任地で死去した妻を悲しんで作った歌です。

また、酒を詠んだ13首という変わり種の和歌も詠んでいます。

 生ける者 遂には死ぬるものにあれば 此の世なる間は 楽しくをあらな(大伴旅人)
現代の社会人も口に出しそうな科白を、率直に歌っています。
―貧乏について考えた大陸帰りのインテリ、山上憶良(やまのうえのおくら)
山上憶良(660年~733年)は「貧乏」を読んだ異例の歌人として知られます。出自はあまり分かっていません。憶良は遣唐使の書記官として唐に派遣され、大陸の文化を肌で学んだ外国文化教養がある人物でした。日本へ帰国後は、中級官僚に昇進。726年には大宰府に赴任しました。そこで大伴旅人と親交を持ち、たくさんの歌を残しました。万葉集の5巻は、山上憶良の作品を中心として構成されています。
憶良が詠んだ「貧窮問答歌」は貧しい生活を強いられている知識人と庶民が生活にについて、門答の形で述べ合った構成になっています。決して裕福な出自であったとは思えない憶良は、自らの才によって生活してきました。現実の生活を、目をそらすことなく自らの文学に映しだす強さと才能にたけた非常に人間臭い歌人でありました。「貧窮問答歌」の最後は、このような歌で締めくくられています。

世間を憂しとやさしと思えども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
(この世は憂いばかりで思うようにならず、肩身の狭い思いをすることもあるけれど、鳥ではないので、どこかに飛び立って行くことはできないのだ)

―ポスト人麻呂・山辺赤人(やまべのあかひと)
 山辺赤人は、聖武天皇(701年~756年)の時代の下級官史で、柿元人麻呂と同じ歌聖と称えられる歌人です。

写実的な表現に優れていて、情景を歌うものが多くありました。その表現は、客観的で静であるといわれます。『万葉集』には、50余りの歌が収められています。富士山の歌は、百人一首にも収められています。

田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(山辺赤人)
(田子の浦を抜けて視界が開けたところまで出てみると、富士山の頂上に真っ白い雪が積もっていたよ)
―旅好き・高市黒人(たけちのくろひと)
 『万葉集』に18首の歌が収められている歌人です。702年天皇の三河行幸のおりに和歌を詠んでいることが分かっています。出自などはほとんど分かっていませんが、収められている18首の歌はいづれも旅の情景を詠んだ歌です。律令制度の安定期に入っていた同時代には、天皇行幸の旅先で、宴席に集まった人々が、旅先での風景や旅情、望郷の気持ちなどをテーマにして歌を詠むことで一体感を高めることが多く、抒情歌がたくさん作られました。

いづくにか船泊てすらむ安礼の崎こぎたみ行きし棚無し小舟(高市黒人)
(いったいどこに停泊したことだろう。安礼の岬を難渋しながら航行していたあの小舟は)

第4期万葉集
 第四期は、734年から759年までとされています。華やかな天平文化の時代です。「奈良の大仏」で知られる東大寺大仏建立などがあった時代です。律令制度が、少しずつ崩れる気配を見せている時期でもあります。天智天皇、天武天皇の子供の代になり、非常にたくさんの王族が活動した時期でもあります。酒宴の席などで和歌を作るなど有閑階級の王族たちが重要な文化的役割を担っていました。穂積皇子などの王族の歌も万葉集にはたくさん収められました。宴席での歌が多く収められるのも4期の特徴です。しかし、4期で飛びぬけて重要な位置を担っているのは、大伴家持です。

―和歌界のサラブレッド・大伴家持(おおとものやかもち)
 『万葉集』の、最終編者の大伴家持(718-785)は三十六歌仙の一人。高級官史で中納言の地位にいた貴族です。『万葉集』では、最も掲載されている歌の数が多い歌人であり、18、19巻、20巻は、ほとんど彼の作品です。3期に活躍した大伴旅人の息子であり、叔母にあたる坂上郎女も歌人でした。130年間もの間の『万葉集』の歴史を閉じた人物でもあります。
 大伴家持は若い時分は、相聞歌といわれる恋の歌などを多数読みました。越中守になり、越中赴任になってからは病をえて、しみじみとした人生についての歌などを詠みました。東国兵士である防人の歌などを、広く収集したのは家持の『万葉集』への貢献の大きな一つです。自身の政治的勢力が失われつつあり、歴史の転換期に家持は『万葉集』の編集を終えました。

759年に『万葉集』の最後の歌が作られました。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事 (大伴家持)
(この降りしきる雪のように 善いことがいよいよ重なりますように)

<主な参考文献リスト>
小川靖彦. 『万葉集と日本人』.角川学芸出版,2014.
佐々木和歌子.『やさしい古典案内』.角川学芸出版,2012.
高松寿夫.『古代和歌―万葉集入門』.早稲田大学文学部,2003.
土屋文明.『万葉集入門』.筑摩書房,1981.
Copyright © R.S.

PAGE TOP