BLOG

ブログ


背筋を伸ばして真っ直ぐな視線でものを見る。それも良い。だが、時には俯いたり見上げたり、忙しい通勤時に迷惑を掛けながらも、地を撮り、空を観る。

写真にしろ文章にしろ人様の目に触れるものならば、何とかできる範囲で真っ当なものにしたい。人間の表現行為に対する敬意を失いたくない。写真は何十枚と撮った中から選び、少しでもまともなものに調整、文章は書いたり削ったり、ほんの短いものでも小一時間は掛けて推敲する。何故なら作家は言霊と言うし、写真家は命がけで現場に臨むではないか。そんな聖域に足を踏み込むのだから、素人で能力足らずと言えども出来る限りのことはしたい。

こんな思いはネット中心、軽いノリの昨今、時代遅れ場違いなのは知っている。しかし、言葉の安売り映像表現の使い捨ては、巡り巡ってやがて自分の表現を冒すに決まっている。多数の賛意は得られなくともこのスタンスは絶対に崩せない。

かつて人は撮りたい写真があったなら馬車で暗室を運びガラスに乳剤を塗った、何か言葉を綴りたかったら墨を擦った。そこまでしてやりたくはないと言うならば、別に撮る必要はない、書く必要もないだろう。少なくとも人に見せ読ませる必要は全くない。こんな私に「友達」は増えない。

友達の友達が友達なら間違いなく人類みな友達である。確か、戯曲になり、社会実験も試みられたところによれば、間に6人を挟めば世界中誰とでも繋がると言う。似たような研究で映画俳優を共演という関係で結ぶと平均3.65人でみんな繋がる。(大学生のお遊びから始まったこの研究の人数をケビン・ベーコン指数とも言う。彼は平均2.9人で誰とでも繋がる。)

震災時に話題となった絆、正直、私は違和感を覚えた。それよりも私にとっては縁だ。例えば、本を読む、惹かれるものを感じ全集を買う、繰り返し繰り返し読み続ける、すると朧だった作家の姿がやがて輪郭を現し、彼としっかり手が結ばれる。何年かかるのか。しかし、これが本物だ。友達を作ることだって同じことだと思う。

関連記事一覧

French&English