作家性の拒否

工事現場

漠然と考えていたことを、そろそろ明確に表明する時期かなと思っています。

私にとっての絵画の理想的な在り方は、ラスコーの壁画であり、クバ族のアップリケです。そこに見られるのは何よりも絵画そのものです。

それらは、まるで絵を描くのは個人ではなく人類であり民族だと言っているように思えるのです。そこでは「私」などほんの小さな存在です。彼らと比べれば現代の匿名性など有名願望の裏返し、単なる勇気の欠如、覚悟がないだけです。

今私は、人類が育んできた絵画と言う大きな流れの末席で絵を描いていきたいと思います。ただ絵を描きたいのです。自己表現とか独創性とかを否定こそしませんが関心事にはしないで。

ですから、独自様式、あるいは統一されたスタイルによる作家性、作家イメージのブランド化を目指しません。しかし、完全な作家性の否定は、今の私の置かれた状況や一般的に言っても絵画販売を諦めることと同じです。

それで現実的には、作家性を否定すると言う作家性、多様なスタイルを持ち変貌するブランドの構築にならざるを得ません。

その方法として、絵画工房という言葉を使い作家性を薄めます。また、パブリックドメインの積極的利用による制作で絵画における独創性等の問題を顕わにします。

できるなら、画家でなく画工、理想的には何者でもない、特にアーティスト、芸術家では全くないと言いたい気持ちがあります。それでも絵が売れるなら。