ジュンパ・ラヒリの「翻訳する私」は、私にとって彼女の本、2冊目になります。絵画と翻訳を比較しながら考えてみたくなり借りた本です。モチーフと絵、原本と翻訳を並べたらと思ったのです。結局、絵に関係して特には残りませんでしたが、本自体はそれなりにおもしろいと思いました。
前に読んだ小説もこれも、ご本人の外見同様少し辛くおしゃれな感じです。繰り返し読むかと言えば微妙なので図書館から借りて他も読むかも知れませんが、買って手元に置いておくまでではないかなと思ってます。
少し書き抜きをすれば、
無難に仕上げた文章で、ありもしない視力があるように見せかけたくはなかった。
いろいろな意味で、ずっと真似をしてきた。あからさまな真似ではなくなったというだけの話である。
「あるべき」は、じつは想像力、創造力とは対極にあるのだろう。想像、創造には、いわば神託のような、つかみどころのない力が働いている。もっともらしい合理性だけでは決まらない。
本物の文学は、あらゆる言語の翻訳不可能な周辺領域で作用するものだ。
こんなところです。
プルーストの「見出された時」を読み終わりました。最後はたたみ込むような圧巻を感じます。しかし、人間の肉体の老いを通して「時」を語るところは容赦がありません。ある意味素朴な表現でもあるのですが、人生百年時代とか、よく分からない老いのポジティブ思考よりは納得できます。
そして、人生の最後を芸術に賭ける決心をした主人公が創作態度で念頭に置くのは、スワンやシャルリュスのような才能ある教養人でも、機知に富んだ社交界の人々でもなく家政婦のフランソワーズでした。作品において尊敬する文学者・音楽家・画家もいたにもかかわらずです。何度も繰り返して読む価値のある小説です。

