優柔不断のすすめ

池の周り

この工房を立ち上げた大きな理由のひとつは、絵そのものを、ネームバリューとか、価格とかを離れて見て欲しい、選んで欲しいと思ったからです。誰が描いたか、更に言えば何を(人物画なら誰を)描いたのかも気にしないで、絵を率直に受け入れ感じ取って欲しいと。

しかし、考えてみれば、絵や美術に限らず、芸術は錯覚を完全に否定したところでは成り立たないものです。例えば、板天井の節目を見ていていつの間にか人間の顔に思えてくることは誰でも経験していることです。

そして、純粋で偏見のないものの見方と言うものは観念的な思考で、実際は情報を受け入れる訓練された型がなければ人はものを見ることができません。あえて言えば先入観のないところに芸術鑑賞はない。人間の顔の型がまずなければ、天井に顔は現れない。

ならば、人に絵を見てもらいたいと思ったら、まず社会が求める画家の物語、虚像を作る、作品に尾ひれを付ける、これを避けてはいけない。たぶんそうなのでしょう。

でも、理想を忘れたら芸術の社会における価値は何でしょう。社会の持つ先入観に疑問を発しなければ、何の役にも立たない芸術に少なくとも積極的な意義は見出せません。

芸術と言う実に曖昧なものに対して信念を持つ矛盾。明確なことは言えない、だから無理に結論を出さなくとも良いと思っています。