
建築構造の本を読んでいて、ミース・ファン・デル・ローエのこの言葉に出会った。元々、彼自身もどこからかの引用らしく、遡るほど原点の真偽は怪しくなり出所は分からないようです。
これが言わんとすることの説も色々あるし、その解釈に対する賛否も多様です。「神は細部に宿る」の細部を全体との関係でどう捉えるかでも答えは変わるでしょう。(もっとも、神の問題を持ち出したら議論不可になってしまいます。)
問題を自分が判断できる領域に限れば、あれこれ考えることも出来そうです。私なら、カンバスに向かった時の画面における全体と部分についてが守備範囲になります。
自分が絵を描いている見ている感覚から言えば、絵の細部に人の力を超えたものを時に感じます。但し、細部とは画家のコントロールが効かないサイズのことです。
従って、細密描写の画面に神を感じるには虫眼鏡が必要です。緻密に描かれた絵の細部には、画家の手業が見えるだけで、まだ神を見ることは出来ません。(厳密には、虫眼鏡程度の倍率で見えるのは、画家の手荒さで、神を見るためには顕微鏡が必要です。たぶん。)
絵の細部から画家の意図的な制御を外して偶然性を取り入れることは、抽象表現主義のような制作によく見られます。そこには人の力を超えた何かがあり絵の魅力を創っています。
それと比較すると、いわゆる具象絵画(特に「本物」そっくりとか言われるもの)の細部には、そのような魅力を感じることは少なく、近付きすぎると見えてくるのは単なるミスだったりします。
しかし、ものを描写する表現でも、細部に神の宿りを感じさせる絵もあります。その最高のものはベラスケスの熟練期の作品です。
絵の道具で腕鎮と言う道具があります。画面に触れないよう橋渡しをして、その上に手を置き安定させて描くためのものです。特に油絵で細密描写をするときは必需品です。
一方、長い棒の先に筆を付けて、画面から遠く離れ絵を描く人がいます。主な目的は大きな画面全体を見ながら描くためですが、筆の微妙なコントロールは難しくなり、思わぬところに絵具が付いてしまうのです。
この時、運が良ければ神が宿るのです。最高の手業を持った画家が、技術を生け贄にして神の力を借りる、そんな気がしています。