「再帰的自己改善」、AIも芸術も危険です。

光景

WSJ(ウォルストリートジャーナル)日本版を先日読んでいて、AI開発が危険領域に入ってきたと警告する記事の中に「再帰的自己改善」と言う言葉を見つけ、再帰的の意味がよく分からなかったのでAIで調べてみました。

それは、設計の枠内で経験から学習しパラメータ(重みの調整)を改善する単なる自己改善ではなく、設計レベルまで改善する危険な状態で、「ただ学習するだけでなく、改善する仕組み自体を改善できる」と言う質的な飛躍を強調するのが「再帰的」の意味でした。

要するに設計した人間の思惑を越えてAIが勝手なことをやり出すわけで、まさに映画の「マトリックス」や「ターミネーター」の世界が現実化しそうにも思えます。記事の中で開発当事者が言うには2年以内に起こりうる事態とありました。

これはこれで大変なことですが、井上陽水の「傘がない」の心境で、けれども問題は自分の絵画制作です。「再帰的」の意味を探っていて考えたのは、「再帰的」に至らない制作行為を芸術の世界では、「マニエリスム」とか「アカデミズム」と呼ぶのではないかと言うことです。

マニエリスム・アカデミズムは単純な自己改善で、既存の様式・技法の枠内で洗練を極めます。上手くなっても枠自体は疑わない。これが再帰的自己改善となると、「何を持って良い絵とするか」と言う基準そのものを問い直します。ルールを破るのではなく、ルールを生み出す次元に立つのです。

マニエリスム・アカデミズムの画家は決して「下手」ではありません。むしろ技術的には頂点に近い。でも改善の方向が内向きに閉じている。「上手くなる」ことと「何のために上手くなるかを決める基準を持つ」ことは、全く別の次元の問題です。

十数年間、万葉集・源氏物語シリーズで自己改善を積み重ねて来ました。しかし、2年ほど前から「再帰的」であろうと試行錯誤の連続です。再帰的であっても改善とは限らず改悪だったかもしれません。

手がかりとしているのは、万葉集・源氏物語シリーズを描いている間に見つけた、ある意味当時の制作とは真逆にも見える「ラスコーの壁画」と「クバ族のアップリケ」です。それらは、これまでの自分の制作の多くを否定しながら根源的なところでは繋がっている気がするのです。